【今日のトリビア】黒船来航の目的は、捕鯨

江戸時代の終焉と明治維新のきっかけとなった黒船来航。
日本の鎖国は日米和親条約によって終わり、これを期に多数の国と国交を結ぶことになる。

黒船来航の様子(Wikipediaより)
黒船来航の様子(Wikipediaより)

しかし、ペリーが日本へ立ち寄った目的は、厳密には国交を樹立するためではなく、捕鯨のための補給拠点が欲しかったためである。

 

産業革命によって欧米の工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになり、その潤滑油やランプの灯火として、主にマッコウクジラの鯨油が使用されていた。この需要を満たすため、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で捕鯨を盛んに行なっていた。日本近海ではジャパン・グラウンドと呼ばれる伊豆諸島・小笠原諸島付近、カムチャツカ・グラウンドと呼ばれるカムチャツカ半島東方が好漁場として知られており、米国東海岸を基地とする捕鯨船は1年以上の航海を行うのが普通であった。当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行っていたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていたが、アメリカも例外ではなかった。

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ちなみに、この時の将軍は第12代将軍徳川家慶であったが、病で倒れていて国政に携わることができない状態であった。
幕府はペリーの持参した国書を受け取り「将軍が病気のため」と返答を1年保留したが、将軍家慶はわずかその10日後に死去した。

この時第12代将軍徳川家慶は病床に伏せていて、国家の重大事を決定できる状態には無かった。老中首座阿部正弘は、7月11日(嘉永6年6月6日)に「国書を受け取るぐらいは仕方ないだろう」との結論に至り、7月14日(嘉永6年6月9日)にペリー一行の久里浜上陸を許し、下曽根信敦率いる部隊の警備の下、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見した。
(中略)
ペリー退去からわずか10日後の7月27日(嘉永6年6月22日)に将軍家慶が死去した。

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参考:黒船異聞 ―日本を開国したのは捕鯨船だ

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